「人の死」を皆さんは信じますか?

「現に人は生まれ、死んでるのだから、何を言ってるの?」と思われる方もおられると思います。
でも、それは「肉体的存在」がなくなるのであって、「精神的存在」はさまざまな人の心に残っていますよね。
あれを「生きている」と考えれば、「人の死」なんてものがほとんど存在しないことになりますよね。

そう考えれば、「リンカーン大統領」も「伊藤博文」も、「エジソン」ですら生きていることになります。
先日の「言霊」の話とかけて、人の持つものやかかわりのある人々の中に、その人が存在していると考えれば、人間に「死」は訪れませんよね。

あくまで考え方の問題ですが、人間が「今」しか見ていないために、この考え方が根本的にほとんど否定されているのが事実です。
ただ、こうやって考え方を変えてみると、人間が今考えている「生死」というものが、いかにちっぽけかがわかってくると思います。

日々の研究を重ねている方々も、「答えが出ない」問題に取り組んでおられますよね。
ただ、「答えを出そう」と研究している以上、永遠に終わりは来ませんよね。
「たくさんの手段・過程・結果、その他様々を知りたい」と考え、研究に取り組んでいる人達こそ、研究の真意を発見でき、研究を続けていけるのではないでしょうか。

「自分の幸福」を考える際、皆それが「自分に対する、自分のための幸福」と考えがちですが、それこそまさに人間が「今」しか見ていないことを証明しているように思います。
「人のために何かをする・何かを捧げる」ことこそ、「自分の幸福」であると、それこそ人間の本質ではないでしょうか。
人が死を迎えず、「今」だけを考えず生きていくものだとしたら、「人のために生きる」ことが、人間本来の幸福、および真実の愛だと、そう思えてなりません。

いずれにしても、「今」を生きよう、「自分のための幸福」を得ようとする以上、人間は決して「本当の幸福」を得られないでしょう。
「本当の幸福」を得たいのであれば、まずは以下の3点を強く自分に念じるべきです。

  • 「精神的な存在」がある以上、人に死はまず存在しない。
  • 「自分の幸福」とは、「人のために何かを捧げること」である。
  • 日常の問題に、「答え」は出ない。「過程・結果・その他様々なものを見つけていくこと」こそが、研究の真意である。

――ちなみに、上記の事柄は、トルストイ氏の「人生論」を読んで、私が感じたことを書いたものです。
もっとたくさんの内容があったのですが、その中でも印象に残った部分について、皆様にお伝えしたくて、ここに書かせていただきました。